2014年12月、築地市場の豊洲移転が決定しました。しかし、今もなお賛成反対の議論がされ、本質的な豊洲をどうしていくという未来についての議論は表に出てきません。
その背景には、立場が異なる人が異なる主張していることが挙げられます。東京都の職員、一般市民、築地市場のスタッフ、卸売業者、観光客、それぞれの立場によって答えはバラバラです。この築地移転問題の構造は、非常に原発問題に似ています。つまり、全員にとっての正解がないなかで、答えを決めなければいけないのです。
そこで本ブログでは、そういった前提条件のもと、何かしらの形で築地が市場として存続し続けることを願い、築地の機能的な側面ではなく都市ブランドの観点から、築地市場が築地に留まるべき理由を3つ挙げようと思います。さらに、築地のロールモデルとなりうるサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ、金沢市の近江市場の事例を交えながら、築地の方向性を示せればと思います。
みんなに知っていてほしい、築地の歴史
まず、本題に入る前に、ぜひみなさんに知っていてほしい築地の歴史のお話をします。
実は、築地の始まりは、市場ではなく築地本願寺をはじめとする寺町。築地市場すぐ横にある築地本願寺は、江戸時代までは浅草近くに建てられていました。しかし、江戸時代の大火事でお寺は全焼。そこで、教徒の人たちが再建のために土地を与えてほしいと幕府にお願いしたところ、幕府から与えられた土地はなんと海でした。
そこから驚くべきことに、教徒たちはその与えられた海を埋め立ててお寺を作ってしまいました。そういった背景から、築地の名前の由来は「築いた土地=築地」と呼ばれるようになりました。そして、本願寺を中心に多くのお寺から成り立つ寺町ができました。
次に築地が変わるのが、ペリー来航が起こった江戸時代から明治への転換期。黒船来航の影響を受け、近代的な海軍整備のため、海にも江戸城にも近い築地は絶好の場所でした。そこで、当時日本海軍の立ち上げを夢見ていた勝麟太郎(海舟)を中心に、軍艦操練所が設置されました。さらに明治維新後、海軍大学校、海軍医学校、海軍兵学校が築地に作られ、海軍の拠点として機能し始めました。
そして、黒船来航以来、西洋化が進み築地に外国人居住地が設置。インターナショナルな風景が広がるとともに、築地に青山学院、立教学院、明治学院などのハイカラ校が建てられました。
さらにさらに、関東大震災により築地がまた変わります。震災をきっかけに、日本橋にあった魚市場が築地に移転。そして、昭和10年に広大な敷地があった築地に「中央卸売市場」が開業しました。それから、80年が経過。今の市場としての築地が成り立っています。
激変するまち、築地。世界的な観光地になった築地は、こういった歴史の積み重ねの上にできています。
築地市場の豊洲移転を否定する3つの理由
では、ここから核心に迫りましょう。築地の機能的な側面ではなく都市ブランドの観点から、築地市場の豊洲移転を否定する理由を以下3つあげ順に説明していきます。
①オリンピック後、廃れる建築物の一つになる危険性
②80年かけて築いてきた世界のTSUKIJIブランドの存続
③築地に関わるコミュニティの存在
①オリンピック後、廃れる建築物になる危険性
ここでは、建築物や公共空間が作り出す世界観のお話をします。
2020年東京オリンピック・パラリンピックのメイン会場になる新国立競技場。ところがこの新国立競技場の工費、当初予定の倍近い約3000億円かかることが判明しました。
また、建設予定地の神宮外苑周辺は、自然が多くイチョウ並木を望む都内有数の名勝。しかし、コンペに勝利したイラク出身の建築家 ザハ・ハディド氏のデザインは近未来的で、景観的にふさわしい建築物とは言い難いです、、。
そして、上の写真は豊洲に作られる予定の商業施設です。現在の築地に並んでいる食料品が買えるほか、新鮮な魚介類などを使った料理を堪能したり、世界や日本の調理器具も楽しめるそうで、築地市場として観光客を迎え入れるスポットになるそうです。
しかし、根本的にこのような近未来的な商業施設に観光客が魅力を感じ訪れるでしょうか?
では、観光客が求めているのは築地市場に求めているものはなんでしょうか?
弊社音楽コミュニケーションデザイナーの高野修平さんは、 世界観の重要性を説きます。例えば音楽業界で言うなら、SEKAI NO OWARIは世界観を作り出す天才グループでしょう。今までのアーティストにはない独特の世界観を作り出し、単独野外ライブ「炎と森のカーニバル」でもその世界観に圧倒された観客を熱狂的なファンに変えました。
それは、築地で言うならば「アジア独特の世界観」です。タイのナイトマーケットしかり、高知県のひろめ市場しかり、あの雑多なカオス感が、アジアの世界観、そして日本の世界観を作り出す要素になっています。
逆に、想像してみてください。築地やひろめ市場のような雑多でオープンな屋台の中で食べる海鮮丼と、整ったシャレた商業施設の中で食べる海鮮丼、どちらのほうが観光的魅力を感じるでしょうか?
ただ、今回豊洲への移転は、主に競りが行われる場内。屋台が並んでいる場外に関しては、築地に留まる方向で話が進んでいます。ではここでもう一歩踏み込んで、築地の一つの方向性として、金沢県の近江市場の事例を紹介します。
金沢市は、歴史を大切にする文化がある金沢城を中心とした城下町。しかし、木造老朽家屋が密集しており、近年の多様化する消費者ニーズへの対応が遅れていました。また、他の地方同様、郊外における大型商業施設の出店ラッシュにより来客が減少し、中心市街地の衰退が懸念されていました。
そういった背景から、再開発事業を実施。市場の持つ伝統を継承しつつ新たな機能を付加することで、2009年に再オープンし、県外から観光客が後を絶たない場所として復活しました。
上の写真は、再オープン後の市場の様子です。ただ、近江市場の来街者は、高齢者が中心。そこで、多世代の人々が利用できるよう、食品街や子育て支援施設・研修施設などの市民交流プラザ、共用の駐車場をそれぞれ新設しました。
また、市場はこれまで消極的だった日曜日営業にも踏み切りました。これにより、売る側主体の経営から、観光客や住民を迎え入れる市場であるという認識を再確認する雰囲気が醸成されたといいます。
今までの歴史を残しつつ、新しい利用客を増やすために攻めの姿勢を示した市場の再開発。築地にとって1つの参考事例になるのではないでしょうか?
②80年かけて築いてきた世界のTSUKIJIブランドの存続
築地は80年かけて、世界のTSUKIJIになりました。それは、具体的にどういうことなのでしょうか?私が経験した具体例をお話しします。
先日、私がアメリカ留学時代に仲良くなった台湾の友人が日本に訪れる機会がありました。その友人は、お昼に訪れたお寿司の写真をFacebookに投稿していました。そのお寿司屋さんの場所は、「築地」でした。ここから読み取れるのは、「築地」のグローバルコンテクスト化(国際文脈化)です。
例えば、海外留学したことがある人なら、「日本=寿司」という文脈が海外にはあり、日本人は寿司好きだというイメージが世界中に広がっているのはご存知かと思います。では、さらにもう一歩、「寿司といえば築地」というように、「日本=寿司=築地」という文脈が世界に存在することが、私の友人の行動から読み取れないでしょうか。
もちろん、日本の友人にオススメされたからだと思う方もいらっしゃると思いますが、それならクチコミの力によって今まで「日本=寿司」という文脈しかなかった友人の頭の中に、「日本=寿司=築地」という文脈を作りだすことに成功したといえます。
また、築地の競りや移動トラックに興味津々な外国人観光客。築地にはいつでも国内外の観光客でいっぱいなのは、こういったクチコミによるコンテクストブランディングが自然と成された結果だと言えます。
このように、世界の中で通用するようなグローバルコンテクストを作り出すマーケティング予算は計り知れず、簡単に作れるものでありません。80年かけて築いてきた世界のTSUKIJIを数十年、数百年、日本の食の玄関として海外からの観光客を迎え入れるために、継承していく必要があるのではないでしょうか?
③築地に関わるコミュニティの存在
最後に、築地市場に留まる理由として築地コミュニティの存在があります。彼らの存在が、今後の築地の文化を伝承していく力を持っていると思います。そこで、実際に市民がイニシアティブをとり、世界的観光地を作った事例をご紹介します。
場所は、現在世界中から観光客を集めるサンフランシスコの港町「フィッシャーマンズワーフ」。戦後のアメリカは、工業化に伴う経済発展の裏で深刻な海洋汚染を抱えていました。海は産業廃棄物や家庭から排出されるゴミですっかり埋め立てられ、見る影もないありさまになっていたそうです。
そして、サンフランシスコで大規模な埋め立て工事が計画された時、見かねた地元の市民が「湾を守ろう」と運動を開始。この運動の素晴らしい点は、単なるデモのような反対運動ではなかったことです。
地元住民の人々は、コミュニティを作り、科学的データを集め、論理的・学術的に政治家を動かしていきました。そうして、1965年には湾の生態系に影響を及ぼすようなむやみな開発を防ぐ法律が制定。
そこで行政とともに計画したのが、自然を保護しつつ観光地としてのポテンシャルを高めていこうとするサンフランシスコのベイプラン構想「フィッシャーマンズワーフ」でした。こうして地元住民のイニシアティブにより、今のフィッシャーマンズワーフが成り立っています。
ここで言えるのが、何か不測の事態がその地域に起こったときに、イニシアティブがとれる住民の存在です。そしてそういった、イニシアティブがとれるのが築地ブランドを愛する人たち、今まで築いてきた人たちなのです。彼らの存在が、築地というブランドを知らず知らずのうちに作り出し、伝承してきました。そして、そのブランドに引かれた観光客がまたその地域に関わってくれる可能性があるのです。その先に築地ブランドを中心とした、新しい時代の築地が築かれていくのではないでしょうか?
まちの歴史を読み解き、そこに地域のストーリーを作り出す
以上が、私が考える、市場が築地に留まるべき3つの理由です。ただ、ここまで反対派としての意見を述べてきましたが、前述したように必ずしも移転を否定する意見だけはありません。
施設の老朽化は深刻な問題で、施設天井からコンクリートの破片が落ちる問題も発生しています。また、自動車用ではない施設構造ゆえに年間400件以上の事故が発生しているという問題があります。
またその一方で、豊洲は過去30年間東京ガスの施設が設置されていたことから、水銀やヒ素、発がん性の物質が基準値よりも多く検出されているという問題や、東日本大震災で浮き彫りになった豊洲液状化問題も挙げられます。
しかし、それよりも、このブログで気づいて頂きたかったことは、まちは過去の歴史の上に成り立っていることです。
まちを歩くと、ところどころに歴史が垣間見えます。その歴史をいかに拾い上げて、層を構成し、地域のストーリーを作ることができるか。共感を呼ぶストーリーがある地域に、人は心動かされ、その地域への愛着や誇りが生まれます。
その愛着や誇りがまちを動かす力にあり、大きなムーブメントを起こす種になるのではないでしょうか。そこにチャレンジングな面白さがあると思います。逆境にある今の築地が、日本に向けて、そして世界に向けてどんなストーリーを発信するまちになるのか、楽しみで仕方ありません。
どうぞ、お気軽にコメントを。
【参考文献およびURL】
『ブラタモリ 築地編』NHKテレビ
『「新国立競技場は建てちゃダメです」戦後70年の日本が抱えるリフォーム問題』 Huffington Post
『市場の雰囲気の継承-近江町いちば館誕生』 株式会社アール・アイ・エー
『築地市場の豊洲移転を否定するもうひとつの理由』SAFETY JAPAN
『オリンピックバブルに騙されてはいけない-大前研一の日本のカラクリ』プレジデント
『隅田川等における新たな水辺整備のあり方』新たな水辺整備のあり方検討会
『あの原発事故は1次産業を犠牲にした工業化の象徴か-高度経済成長が職と食に与えた功罪』ダイアモンドオンライン
『築地移転問題と賞味期限』ソトコト
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