92年間生きた祖母への罪滅ぼし。

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僕が今回起業した理由の一つに、去年亡くなった地元兵庫県のおばあちゃんの死がありました。正直、記事にするかどうか迷ったけど、せめてもの罪滅ぼしと思いながら、当時のことを思い出しながら書いています。

故郷を大切にできていなかったという罪の意識。

上京して社会人3年目。母親から何回かLINEで連絡がありました。

「おばあちゃんに顔見せに、たまには帰ってきなさいよ」

あまりしつこく言わない母親だったの珍しいなあと思いながら、だけども、その時は何も深く考えずに、僕はオフィスで仕事に戻りました。

そして、夏休みに兵庫県の実家に帰ったとき、母におばあちゃんが癌だと伝えられました。

地元を離れて東京で働いている人たち。誰もがみな悩む「地元」や「故郷」との関わり方。親孝行ってどれくらいすればいいんだろうか、地元に本当はもうちょっと帰れればと思うけど、仕事の兼ね合いもあってそんなに長く帰れない。だから、まあ夏休みだけ帰ればいいか。

故郷を捨てたわけではないのに、付きまとう言葉にはできない罪悪感。申し訳ないという言葉とともに、何かが心に突っかかって、だけど結局また帰ってくるから、今度地元に長く帰ればいいかってなるけど、結局帰ってテレビ三昧。それの繰り返し。僕もその一人でした。

僕にとって、おばあちゃんは「ふるさと」そのものでした。幼少期、おばあちゃんの家が居場所であり、僕にとってワクワク出来る秘密基地のような場所でした。 夏休みにはいとこ家族一同が集まり、トランプやゲームをしておばあちゃんの家で1日中過ごしました。

家近くの川や原っぱで遊び、木に登りイチヂクを採り、くちびるを真っ赤にしてみんなで食べました。縁側で花火をしたり、スイカの種飛ばしをしたりして、夏を過ごしていました。真夏の太陽がサンサンに降り注ぐ時期でした。まさに絵に描いたような少年の夏休みだったと思います。

「りゅうちゃん、そんな紫蘇ジュース好きなんけえ〜」。そういって、僕が好きな紫蘇ジュースをもう一杯入れてくれる。そんなおばあちゃんが僕は大好きでした。

他にも、おばあちゃんの家で作る熱々の柏餅、真っ赤な紅生姜が乗っているちらし寿司、甘いカレーは忘れることはできません。まさにおばあちゃんの味でした。そんな、おばあちゃんが癌だと聞いたとき、僕は正直信じられませんでした。

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僕が生まれた兵庫県の上郡(かみごおり)という町は、兵庫県の最西端にある小さな町です。現在は人口約1万2,000人で、地域創生の文脈でよく語られる過疎地域で、消滅地域の町です。その町の桜が咲く季節におばあちゃんは生まれ、「春子」と名付けられました。

おばあちゃんが癌だと伝えたれた夏休み、その時はおばあちゃんはまだまだ元気そうで、実感はそこまでありませんでした。ただ、僕は悶々としながら、東京に新幹線で戻りました。

次に僕が地元に帰ったのは3ヶ月後の正月でした。おばあちゃんは、かなりやせ細って病院のベットで寝ていました。正直信じられませんでした。おいおい、展開早すぎだろ。もうちょっとゆっくり時間が進んでくれよ。まだばあちゃんになんの恩返しもできていないのに…。その時に罪悪感が一気に出てきました。

「なんで、もっと地元に帰らなかったんだろう」

「サッカーしかしてなくて、おばあちゃんの誕生日もまともに祝った記憶がない…」

「恩返しも何もまだできていないのに」

おばあちゃんは体も一回り小さくなってしまっていて、正直見てられませんでした。僕は現実から逃げたくなりました。ただ、おばあちゃんに会える回数を少しでも増やしたい。僕はその正月。できる限り足を運びました。

罪滅ぼしではないけど、僕はおばあちゃんに手紙を書きました。僕は22才でアメリカ留学をしました。そのときに、おばあちゃんから手紙をもらいました。その手紙が自分を励まし続け、今でも自分の原動力になっている。だからこそ、僕は手紙でせめてもの感謝の気持ちという名の罪滅ぼしをしました。そう思って手紙を書いて、おばあちゃんに渡しました。そして、また地元から東京へ新幹線で帰りました。

そして、母親から、「いよいよだから準備しておいてね」というLINEが来ました。僕は週末に有給を使い、東京から地元の兵庫県に帰り、夜遅くにおばあちゃんがいる病院に訪れました。母親も看病に疲れ切った顔をしていました。

ただ、そのとき僕はおばあちゃんとある約束をしていました。おばあちゃんが生きてきた92年間の話を聞きたい。それは僕にとって使命でもあると思いました。というか、僕は聞いておかないと後悔すると思ったんです。

ただ、おばあちゃんは昔の話をしたがらない人でした。おばあちゃんは賢い人だったので、昔の自慢はしないし、戦争を生き抜いた人だったからこそ、きっと当時のことを思い出したくない、次の世代は戦争を知らないでほしいという思いもあったんだと思います。おばあちゃんはか細い声で、おじいちゃんとの思い出や、当時を思い出しながら言葉を紡いでくれました。

おばあちゃんは、おじいちゃんと共に、故郷を生き続けました。
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おじいちゃんは、本当に自分が大変しとってんや。

おじいちゃんと出会ったのは、おばあちゃんが24才。戦争から帰ってきた当時31才のおじいちゃんと出会い結婚しました。ただ、結婚してからも、おじいちゃんは当時の農協に勤め、おばあちゃんは百姓ばっかりな生活を過ごしていたそうです。

そして、僕の母親を含め三姉妹を産みました。

63才でな、死んだったんや、癌で。」僕の母親が24才の時、おじいちゃんも癌で亡くなりました。

おじいちゃんはな、舞鶴に引き上げられたんよ。おじいちゃんは4年間、戦争に言っとったん。その後、シベリアのタシケントに連れて行かれてなあ、えらい目におうたったんよ。森林の伐採とかなあ、そういう仕事ばっかりでなあ。んでなあ、収容所にはお風呂もなくて、作業を終えた後には手拭いがカチカチに固まってもててなあ、それくらい寒い中でみんなで一緒に寝るやろ。そうすると、次の日目が覚めたら友達が死んどるやて。そんな生活だった。おじいちゃんはなあ、食べるものにも困っていて、馬は麦を食べるから、その馬が出したフンを洗って、麦を見つけて、それを食べていたんやて。そんなひもじかったんやて。おじいちゃんは。

舞鶴への引き上げ運動があり、最後の引き上げでおじいちゃんは帰って来たらしい。おじいちゃんの身体には当時シラミだらけだったそうだ。

日本に帰ってきてから、おばあちゃんと結婚してな。おじいちゃんは農協に勤めていた。農協は41才まで勤めていて、そこから農協を辞めて、自分の製材所の会社を作ったんや。ほんまに度胸がある人やったわ。

そこからは、おばあちゃんの生活は、百姓。力の限り、知恵もないし、養鶏もやって、おじいちゃんの会社を手伝ったりな。そこからあんたのお母さん含めてな、娘3人頑張ってくれてたんや。そういう生活やったんや。

当時は水車があってな、そこになあ桶に麦や米を入れて踏んでてなあ。それでなあ、お弁当はできるだけええもの食べさせたいから、娘には麦やなくてできるだけ米を入れて食べさせてあげてたんや。他の家もそうやったけえなあ。

野菜ばっかり食べてな、梅干しとおこうこ(漬物)とな。そのおこうこがなあ、美味しいんやあ。他にもなあ、味噌も作ってなあ、その味噌の中に大根を入れておくんや。その大根が、ほんまに、美味しいんやあ。

他にもなあ、石臼をやってなあ、きな粉を作ったりもしよったんやあ。それが美味しかったんやでえ。肉なんて食べれんでなあ、イワシくらいを食べてたんやあ。おかきを干したり、あられも作ったりしてたなあ。

おばあちゃんは、女学校を出て、タイピストになって、神戸で勤めていた。低空飛行で米軍が空襲を開始してから、疎開して上郡に帰ってきた。原爆に会った人はおらんけど、黒い雨を見た友人はいた。そんな時代を生きたからこそ、おじいちゃんはなんでもできると言って会社を始めた。

あんなに働けえ言われてももうできひん。子を背負って洗濯に行ってなあ。そんな生活をしてたから、腰が曲がった訳でもないけどなあ、そういうことやあ。」

ご飯の中に煎れた大豆を入れて、香ばしくて美味しくてなあ。もう今はそういうのが懐かしくてなあ。もう今は何も食べれんけどなあ。今はええ時代やでえ。

りゅうちゃん、ごめんなあ。長い時間なあ。

最後におばあちゃんは娘3人との思い出話を終えると、その日はゆっくりと眠りにつきました。

話を聞いた、次の日に、僕はまた病院に行きました。余命を聞いていた僕は、そのときがおばあちゃんと会える、最後の日でした。おばあちゃんと目を合わせるのが本当に辛かったです。そして、おばあちゃんの手を握り、「おばあちゃん、ありがとう。」と伝えました。

「りゅうちゃん、東京から来てくれてありがとうなあ。元気でなあ、元気でなあ、元気でなあ、元気でなあ、、。」

全力で振り絞り、繰り返す、か細い声。それがおばあちゃんの最後の僕への言葉でした。病室から出るまで聞こえ続けた、「元気でなあ」の声に後ろ髪を引かれ、僕は涙が止まりませんでした。

LINEが鳴りました。仕事を会社メンバーに託し、最終の新幹線に乗って東京を発ち、実家の兵庫県に向かいました。小学生のとき、僕は新幹線が大好きなで、未来に向かうことのできるタイムマシーンのように、ワクワクできるものでした。けれども、その時は少しもワクワク出来るものではなくなっていました。

告別式には、おばあちゃんが住んでいた地域の旧友や親族が出席しました。 葬式にはその人の生き様が現れるとよく言いますが、旧友や親族からはおばあちゃんがいかに尊敬され、愛されていた存在だったかを感じました。そして、おばあちゃんは和歌を書く人でした。告別式でもおばあちゃんの新聞に掲載された短歌がまとめられた冊子を母親が作成して控え室などに置いていました。

おばあちゃんの家に遊びに行くと、テレビの前にあるコタツの一辺がおばあちゃんの定位置でした。部屋の襖を開けるとおばあちゃんが笑顔で迎えてくれる。その場所にもうおばあちゃんがいないと思うと、本当に寂しくなりました。

「ありがとう。じゃあまたね。」、「おう、いってらっしゃい」。父親に駅まで送ってもらいました。この父親との繰り返しも、あと何回続けることができるのだろうか、ふとそんなことを考えました。

そう思いながら、僕は電車の切符を購入して、ホームで電車を待ちました。ホーム目の前には野球場と、その後ろに広がる低い山々。もうすぐ山桜が咲きそうな気配がしていました。

「上郡の山桜は本当に綺麗やねんで。次は桜が満開のときに帰ってきいや」とおばあちゃんの声がしたような気がしました。

電車を待つ僕の前で、うぐいすが小さく鳴いていました。もうすぐ、おばあちゃんが生まれた春がやってくる季節でした。

社名「瀬戸内サニー」には、故郷・祖母の意志を込めています。

僕が設立した「瀬戸内サニー」という社名。「瀬戸内」という地域を名前として選んだのも、いつかは自分の地元である、おばあちゃんのいた兵庫県も応援したい、そんな事業をしたいと思っているから、「瀬戸内」という、自分が大好きな香川県も、おばあちゃんがいた僕の地元の兵庫県も含められる。そういう意味も込めての言葉選びをした上での「瀬戸内サニー」にしています。

「東京からよう来てくれたなあ。元気にしとったんけ〜?」と、おばあちゃんの家に遊びに行くと、僕を出迎えてくれる、おばあちゃんの太陽のような笑顔を思い出しながら、そんな笑顔を生み出せるような事業をしたい、会社を育てたい。それが僕の心からの願いなんです。

「木の芽吹く 春にさきがけ老の家に 旧き友よりはがき舞い込む 」

この短歌は、葬式翌日の新聞の短歌コーナーに掲載されていたおばあちゃんの最後の歌でした。 亡くなってもなお、おばあちゃんの言葉は生き続けていました。

この記事は、一周忌を迎えた昨日、天国にいるおばあちゃんへの僕ができる罪滅ぼしであり、僕の意志固めです。おばあちゃん、本当にありがとう。僕はおばあちゃんの意志を受けて、次の時代の故郷を創るために、全力で生きていきます。

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